私は、昭和50年福島県石川郡石川町に生まれました。沢田地区という今はリンゴなどの果樹がさかんな地域です。
実家は農業をしていました。野菜全般を作っていました。
小さい頃は、家の中で遊んでいると怒られるという状況だったので、いつも外で真っ暗になるまで遊んでいた記憶があります。
小学校に通う道も春と夏と秋と冬でそれぞれいろんな表情があったことを今から考えると懐かしく思います。
春は、土手にツクシが生えていたり、土の黒と緑のコントラストがとてもきれいでした。
夏は、プールに通うのがとても楽しみでした。夏休みには、朝早く、父が市場に野菜を出荷するのについて行くのが好きでした。まだ、みんな寝ている時間に市場では電気がまぶしいほど明るくて、みんな仕事をしている雰囲気が好きでした(本当は帰りに唯一開いているセブンイレブンでお菓子を買ってもらえるという楽しみがありました)。
秋になると学校行事でイナゴ取りがあったり、家に帰ってから友人と栗拾い(山に自生している小さい栗です)に行ったり、沢ガニをとったりしていました。秋は、稲刈りの季節でもあり、田んぼの中限定で、コンバインの操作をさせてもらうことができたので、それが楽しみで学校から飛んで帰っていました。ちょうど、小学校4年生の頃です。
冬に大雪が降ると、両親はビニールハウスが雪の重みでつぶれるのを防ぐために、深夜に何度も雪落としに行くのを寝室から眺めていたのを覚えています。仕事って大変な事なのだなーと、小さいながらに考えていました。私の仕事に対する姿勢は、小学校の頃にはすでに固まっていたのかもしれません。
中学校を卒業すると、郡山市の高校に通い、大学は東京に行きました。
大学は、外国語学部英語学科というところに入りましたが、はいったとたん、一番びっくりしたのが、能力別のクラス分けで下から二番目のクラス(AからHまでのランク別でGクラス)になったことです。
世の中には当然すごい人がたくさんいます。私もそんなことは知っていましたが、得意だと思っていた英語でビリに近い実力でかつ、本当の実力はクラス分けとかでは計ることのできないレベルの差があることに気がついて、金槌で後ろから頭を殴られるような大きなカルチャーショックを感じました。そう言う優秀な人にもまれたことも今となっては良い思い出です。
そのころ、ちょっとだけとった憲法の授業がとても新鮮で面白かったことを覚えています。しかも、法律って、大学から学ぶのが普通なので、それまでの実力差もあまりないんですよね。と思いながら、法律の世界に足を少しずつ踏み入れることになりました(どの世界にも優秀な人がいるので、結局、自分はビリの方なんですが)。
結果的に、何回も何回も試験に落ちてやっと合格したのですが、弁護士の仕事は自分には向いているように思います。いろんな分野の事に触れることができるし、人から感謝の言葉をいただけることも本当にうれしいです。もちろん、難しい事件もあり、依頼者のために結果的にならないこともあり、心を痛めることもあります。
それでも、この仕事について良かったと考えていますし、もっともっと精進していきたいと考えております。